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2006年5月22日 2006年5月23日 ポーランドカトヴァツェにて | ||||
2006年3月5日 ふれあい ガラコンサート サラマンカホールにて |
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2005年9月13日 愛知万博 ポーランド館コンサート | ||||
2005年6月5日 大垣市室内管弦楽団 第20回 演奏会 |
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ポーランドクラクフ旧市外中心にある ワジェンキ公園内のショパン像(左図) ワルシャワ市内にある 聖マリア教会(奥) ヴォィチェフ教会(手前)(右図) |
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![]() オーストリアを代表するピアノメーカーであり、伝統的なウインナトーンで知られる。家具職人の家に生まれた創始者のイグナツ・ベーゼンドルファー(b.Wien 1794;d.Wien,1859)がウイーンのピアノ・オルガン製作者ヨゼフ・ブロッドマンの許に弟子入りし、修業をはじめたのは19歳の時であった。彼がピアノ製作者として独立したのは、1828年のことである。 "若年の頃のリストがウィーンでのコンサートで土地の著名な何社かのピアノを弾いたが、激しい超絶技巧の彼の演奏に耐え得なかった。然しながら、友人の助言で最後に試みたベーゼンドルファーだけは奏者の要求する過酷なまでのあらゆる条件に耐え、聴衆はリストの演奏を満喫した"ベーゼンドルファーのピアノの優秀性を物語るエピソードで、その評判は全欧州に広がりベーゼンドルファーの名は一躍有名なものとなった。またリストとの永年に亙る交友の初めでもあった。 1830年に「宮廷及び会議所に指定されたピアノ製作者」の照合を与えられ、また1839年と1845年にはウイーンの産業博覧会で第一位の賞状と金メダルを獲得したイグナツは、その後も増え続ける需要に応じるため新しい工場の建設を計画したが、その完成を見ることなく1859年に世を去り、事業は次の世代のルードヴィッヒ(b.Wien 1835;d.Wien,1919)によって受け継がれた。 ルードヴィッヒが主宰するこの事業が新装なった客席数200のホールを伴うニューウィーンの工場に移転したのは1860年のことで、この年、特殊なピアノアクションの特許を取得している。ルードヴィッヒの今一つの偉業はベーゼンドルファーホールの建設である。早くからその音響効果が優れていることを見抜いていた彼がリヒテンシュタイン皇子の乗馬学校を改築したもので、その客席数は200、こけら落としはハンス フォン ビューローによるリサイタルであったことが記録されている。音響的に特に優れたこのホールはウィーン随一と評判され、市当局の要請で閉館を余儀なくされた1913年までの間に凡そ4500回にも及ぶコンサートが催されたという。 1828年から1975年までの間に33種の異なったピアノを製作したという。初期のそれはウインナアクションが装置されたものであり、イギリス式のアクションを導入した後も伝統的なこのタイプのグランドは並行的に製作され、それは1900年〜1910年の頃まで続けられた。現在世界で最も広い音域を持つベーゼンドルフィーのインペリアルは97鍵(C-C)で、超低音の役割は音楽の幅を広げると共に弦の共鳴によって通常の低音域の音色を豊かにすることにある。構造的に他とまったく異なるのは親板の製法と材質で、音響版と同じスプルースで作られ、ベニヤ方法ではなく板の内側に溝を入れて成形されている。また支柱もその用材にはスプルースが充てられており、それによって音響効果を優れたものとしている。鉄骨もその要素のひとつで、フレームの材質、構造等に大きな違いが認められ、着脱の可能なカポ ダストロバーもその顕著な例のひとつである。またデュプレックススケール システィムの採用は見られない。(但し一部の近年の機種を除く)その辺りから、ベーゼンドルフィーが主張する音の傾向が察知できるのではなかろうか。ピアノの音色は時代の変遷に伴って変化してきたとされているが、ベーゼンドルファーは創業以来160年もの長い間ウインナトーンという伝統的な音を守り続けてきた唯一のメーカーである。 |
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PLEYELこのピアノの創始者イグナーツ・プレイエル(Ignaz Pleyel 1751-1831)はヨーロッパに多い指物師、家具職人出身でもなく、もともとピアノ造りでもなかった。フランスの生まれでもない。彼はモーツァルトが生まれた翌年に下部オーストリアの貧しい学校教師の家に、38人の子供のうち24番目に生まれたがその非凡な学才が認められて、15才になるまでウィーンで非常によい先生につくことが出来た。そしてハンガリーの貴族エルデーディ伯爵の奨学金を得て、アイゼンシュタットでヨーゼフ・ハイドンに師事し、1771年には早くも伯爵家の楽長に任命された上、イタリア留学に出された。その後ストラスプールの楽長を歴任して、1795年(38歳)からはパリに永住する。 当時29曲のシンフォニー8曲のコンチェルト、45曲の四重奏曲等の作品が溜まっていたのでそれを出版して成功をおさめ、1807年には更にピアノ工場を開設し、これも着々と実績をあげていた。 イグナーツは1824年に引退したが、その後を受けて長男のカミーユ・プレイエル(Camille Pleyel 1788-1855)が大きな飛躍をもたらした。1815年からロンドンでブロードウッドのイギリス・メカニックの工法を学びパリに帰って父の工場で働きながら修業を積んだ。彼の新しい着眼は鋳型で造った鉄骨の使用(1826年)、合板による響板の製造(1830年)、広く有名なピアニストの意見を取り入れて造ることなどにあった。彼自身は作曲とピアノを父から学んだ音楽家であり、夫人マリー(1811-1875 モシュレス・カルクブレンナー門下、メンデルスゾーン、リストが賞賛し、ヨーロッパ各地に名を馳せた名ピアニスト、ベルリオーズの恋人でもあった)も名のあるピアニストであったがカミーユは店を継いだ時から有名なピアニストのカルクブレンナーを経営陣に加えクラーマー、モシュレスなどが親友だったばかりでなく、ショパンに対してはパリ入りをしたときからピアノの面倒をみるのである。ショパンは1831年(21歳)にパリに来たが以後10年足らずの生涯はプレイエルだ作曲をし、演奏をした。彼の晩年はピアノは今日ワルシャワのショパン協会の博物館に保存されているし、もし一台はアップライトではあるが彼が一時転地療養で滞在していたマヨルカ島のヴァルデモーサ修道院にもあって観光客を群がらせている。プレイエルはショパンのピアノでありショパンの音であった。 |
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